12月16日に書いたこと

たぶんね、
あの時こうしていたら、
っていうのは
なくならないと思うんだ

って、友達が言った。


もしそれが出来ていても、
また別の「こうしていたら」
って言うのが現れる。

それが出来ていても、また。
きっとね。

そうだね。



『あの時』、というのは、
彼が亡くなる前の日のことだ。

家族の予定に合わせて
府中の病院に
ショートステイにお泊りしていた。

ステイの初日は朝から昼過ぎまで
手続きや申し送り、
そうだ、あの時は入浴後のケアも
やるところを見てもらって
たっぷり時間を使って帰ってきた。

次の日は私もセッションの仕事をして
帰宅して
夕ご飯の準備に取り掛かる頃、
病院から電話があった。

熱はないけど、
鼻水がちょっと出ています、
こういう時、どうしてますか?

風邪のひき始めには
葛根湯を入れてあげると
そのまま良くなるので
うちには常備しているのだけど
病院では漢方は出せなくて、
だから、届けることにしたんだ。


出かける用意してる間に
弟が帰ってきた。
娘が帰って来るのは2時間後。

今から弟を乗せて病院に行って
帰りに駅で娘を拾って
駅前でご飯を食べれば、
9時前には家に帰れる。

そう算段して車を走らせた。

2包の葛根湯を病棟の入り口で
看護婦さんに渡した。

彼の顔を見たら
遊んであげずに帰るわけにはいかないから
来たことを気づかれないように
そっと、彼には会わずに帰った。

そういうことは、前にもよくあった。

学童のお迎えに間に合わないから、
保護者会に間に合わないから、
…そのためのショートステイだから。


でもその次の日に
亡くなってしまうなら…

あの時まだ彼は生きていたのに…

と、私は何度も
頭の中で繰り返した。



もちろん、そんなことは
考えても仕方がないと分かっている。

それから帰って、
朝の5時過ぎに電話が来た。

目覚ましの鳴るより前だ。

これから朝食の時間なのですが
あまり調子が良くないかもしれないので
点滴に切り替えて、
食事の注入を止めようかと思うけど
お母さん、どう思いますか?

胃の中の残量を聞くと
いつもなら特に問題もなく、
食事の注入をとめるより
薄めて様子を見れるんじゃないか?
と私は思った。

電話を切ったけど、
これはやっぱり行かなきゃな、と
子供たちの朝ごはんを用意して
支度をして
車に乗ろうというところで
娘が電話を持って追いかけてきた。

様子が良くないので
なるべく早く来てください
と病院からだった。

旦那さんは起きて来たところで
(前の晩仕事で遅く、休みの日だった)
子供たちを送り出して
後から行くことになった。

何しろまだパジャマだ。

車では、なるべく慌てないように
いつも通り音楽をかけた。

以前、彼が家で具合が悪くなり、
朝を待てずに
彼を乗せてひとりで夜中に
病院へ向かった時もそうだった。

焦らず、でも急いで、
早朝の道は空いていて
1時間もかからずに
あっという間に病院へ着いた。

受付を走り抜けて
エレベーターからおりて
病棟に着くと
彼のベッドの周りは戦場のようで
気切口からアンビューバッグで呼吸を送る人、
心臓マッサージで胸を押す人、
点滴を取ろうと腕の血管を探す人たちで、
空いている場所は裸の足だけだった。

だから私は
少し血のついた足を
さすって名前を呼んだ。

外から来た私の手は冷たくて
可哀想だから
そばにあったズボンの柔らかい生地越しに
さすったほど、
あの時の彼は暖かかった。

それから処置のために
私は病棟の端のベンチで待った。

まだ原因は分からなかった。

彼が苦しがって、
診察している間に
(嫌がってバタバタしたのだと思う、
診察さえなかなか出来なかったのは想像がつく)
胃ろうや気管切開部から出血があり、
血圧が下がり抵抗しなくなった。
私が到着したのはここ。

点滴の血管を探しにくい子だった。

血管が細くて。

点滴のルートが取れて強心剤などの
処置をしながら、
となりの府中総合に転院手続きが取れ、
救急車が到着するまで、
そこで待った。

同じ敷地内だが、坂道もあり
離れているので救急車が必要だった。

救急搬送され、
そこからまた、長い時間を待った。

こうやって長い待ち時間を
これまでも何度もひとりで座って待ったけど、
もうあの子は助からないんだな
と、あの時は静かに分かった。

もちろん。助かるための努力を
しているのだけれど。

ずっと控室で待って、
そのうち旦那さんが走って来て
そしてまた、長い時間を待って。

次に彼に会った時は、
もう何も器具を付けずに
横たわっていた。

レントゲンの所見によると
腸閉塞が急に進んで
腸壁がもたずに、
どこかで破れてしまったのだろう、と。

そこから、長い長い、
時間が止まったような
なのにたくさんの事が押し寄せて
たくさんの事を決めなければ
ならない何日かが過ぎていった。

葬儀の後しばらくは
夜中に目が覚めて、ただ泣いていたり
朝泣いていて目が覚めたり、
眠ってもお葬式の夢を見ていた。

何日かすると、
彼のケアがなくなったので
いつもより眠る時間が
たくさんあるのに驚いたり、
彼のお世話をしないので
やることがないのが不思議だった。

そして、
亡くなった時よりも
切迫感がなくなってからの方が
先に書いた
「最後に見た彼の姿」を
思い出すことが多くなった。

病院は力を尽くしてくれたし
あれがもし自宅で起きたら
私は全く対処出来なくて
どうしようもなかったと思う。

むしろ、
私が負うべき彼の苦しむ姿を
代わりに病院が引き受けてくれた
とさえ、思う。



私は
母親だから
子供の体に傷ひとつ付けたくなかった
子供の体から血の一滴も
出させたくは、なかった。

だけど、
何度も手術になり
そんなことばかりだった。

そんな姿ばかり見て来た。

ケアの従事者として
そんなことばかり、
この手でやってきた。

だから、
もう自分は慣れていると思っていた。

なのに、
最後の、少量の血のついた足を
ずっと思い出すのだ。


私は、
そんな記憶をわざわざ何故、
何度も思い出すのか、
それを味わって何なのか、
つまらないことを、
たとえば自己憐憫とか、
そんなことしたいのかと
自分に問い正した。

だけど、
これが

「目に焼き付いて離れない」

ということなんだろうな、と
そんなことを知った。


それで、
3週間が過ぎた日曜日、
昨日の朝、
まだ布団の中にいる時に、
もうそれを忘れることは出来ない
忘れようとしなくていい
私はあの子の最後の暖かな体を
大切に覚えていていいんだ
あの子の温かな体温を。と、
そう思ったら、
体の底から涙が溢れて
布団をかぶって泣いていた。

しばらくの間。

すると、
二階から元気な足音が
ドカドカと降りてきて
キッチンに行った後、
私がいなかったので
部屋までやって来て
中学生にもなった弟が
私の布団にもぐり込んだ。

いつものように
くだらない話をして、
あんまりくだらないので
笑ってしまった。

昔のように抱っこしてこないけれど
弟はとても暖かかった。



人は冬に差し込む陽の光のように
暖かい。


光と空

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